江戸期の白岩焼の創始

江戸時代のはじめ、角館は秋田藩の要所として城をかまえた城下町でありました。
角館を11代にわたって治めた佐竹北家は、文化事業に熱心であった秋田藩主・佐竹家の筆頭分家にあたります。風流を好んだ家風で知られており、書画や俳諧、和歌に秀でた城主を代々輩出しました。当時の地割そのままに残された武家屋敷や桜並木は、現在もその美しさを伝えております。
当時の秋田藩は鉱山を財源のひとつとしており、技術発展のために藩外から有識者が招かれることがたびたびありました。その一人、鉱物の精製のために陶製のルツボを作る技術者として招かれたのが、相馬大堀焼の関係者であった相馬浪人、松本運七でありました。運七は藩の仕事のかたわら、鉱山の近くで開窯を志します。しかし諸所の事情により道は阻まれ、適地を求め流れるうちに角館の東、白岩の地に良質の陶土を発見しました。
明和8年(1771年)、運七は白岩でやきものを始めます。
角館に仕える武士の中で運七を取り立てる人々が現れたことから、佐竹藩最初の窯として開窯が実現します。運七のもとで陶技を学ぶべく、白岩の住人の中から弟子たちが集まります。とくに一番弟子であった山手儀三郎は、その後上京し、京焼、上絵、楽焼の技術を持ちかえり、その後の白岩焼発展の基礎を作りました。
江戸期の白岩焼の発展と衰退

白岩にやきものの技術が根付き、需要が増えるとともに、窯の数も増えていきます。最盛期には窯は六つを数え、五千人の働き手がいたと伝えられております。登り窯の連なる東の山は白岩瀬戸山と呼ばれました。
当時の白岩焼には江戸期の地方窯には珍しい、ふたつの大きな特徴があります。
ひとつは藩への献上品から、庶民の生活日用品、そして特産品であった濁酒(ドブロク)の貯蔵容器まで生産する製品の多種多様さ、そしてもうひとつは、陶工の個人名の印を刻んだ作品が見られることでありました。刻印のついた作品の出現は窯が増えた時期と同時期であり、陶工同士の切磋琢磨と誇りとが感じられます。
隆盛を誇った白岩焼ですが、江戸から明治にかけての動乱のなか、廃藩置県によって藩の庇護を失ったこと、藩外からのやきものの流入で競争が激化したことなどから、徐々に衰退の途につきます。廃窯する窯が続くなか、追い討ちをかけるように震災がおこります。すべての窯が壊滅状態となり、わずかに復興をなした窯も明治33年(1901年)には火を消します。こうして、白岩焼は百三十年の歴史に幕を下ろしました。
現代の白岩焼の復興

白岩焼の終焉から70年、江戸期の窯元のひとり渡邊勘左衛門の末裔として、わたくしども和兵衛窯は復興を目指しておりました。
おりしも思想家・柳宗悦氏の提唱する「民藝運動」によって、陶芸、木工、染色、織物など、各地の失われゆく伝統工芸のすばらしさが見直されている頃でありました。工芸品の調査と収集のため日本各地を歩き回った柳氏とともに、角館にも数度にわたり来訪したのが、陶芸家であり、のちに人間国宝となる浜田庄司氏でした。
昭和49年(1974年)、当時の秋田県知事が浜田氏に白岩の土の陶土適正の検査を依頼します。結果、良土であることが分かり、同時に浜田氏から復興のための助言をいただいたことは大きな推進力となりました。
翌年、和兵衛窯は開窯し、復興を果たします。平成5年(1993年)には四室の登窯を完成させ、白岩に再び登窯の煙を立ち上らせることとなりました。
和兵衛窯のものづくり
和兵衛窯は、手間ひまをかけた丁寧なものづくりを身上としております。
1974年、江戸期の白岩焼の調査に秋田に訪れた故・浜田庄司氏をして「白岩焼の特徴であるナマコの釉薬は、現在各地で似たものが使われているが、白岩焼がいちばん良い」(昭和49年7月6日付『秋田魁新聞』)と言わしめた海鼠釉の美しい発色を求めて、三十有余年の研究を重ねてまいりました。この青白い釉薬の色は、顔料によるものではなく、土の鉄分と釉薬の灰が窯の中で科学変化を起こすことで現れます。そしてそれは、この土地の原料でしか現れない釉色でもあります。
いくつもの釉薬の使い分けが必要であり、温度がわずかに高ければ色が濁り、わずかに低ければ艶がなくなってしまう、適温の範囲が非常に狭い海鼠釉はとても気難しい存在です。 そのような釉薬を灯油窯、登り窯といった焼き上がりの安定しない窯で焼くことはリスクの高いことではありますが、そうでしか得られない発色があると、今日まで制作を続けてまいりました。
個性の強い釉薬を受け止め、かつ、現代の生活に合うかたち、その答えを求めて和食器から洋食器まで和兵衛窯作品の種類は増え、そして作るたびに改良を重ねております。
この秋田の土地で陶芸を生業とすることは、一年の三分の一近くを、土も釉薬も凍る季節と向き合うということでもあります。しかし、その雪深く外界と断絶された日々は同時に、ものづくりにじっくりと対峙することができる僥倖の時間でもあります。そして、海鼠釉の青白い発色と赤土の濃茶の色は、まさに雪と大地の色であり、この土地で連綿と厳しい冬を受け止めてきた人々の、雪どけに垣間見える恵みの土への深い感慨を表しているように思えてなりません。
現代社会のスピードには逆行するような仕事の仕方ではありますが、こんな時代であるからこそ、過剰といえるほどの手間をかけた作品を、そして手間をかけねばできない作品を提案していきたいと思っております。江戸期の古白岩焼にたずさわった先人たちの時間、そしてわたくしども和兵衛窯がひとつの作品にこめる時間、この長い長い時間が、作品の佇まいにつながるようなものづくりをこれからも続けていきたいと願っております。